空き瓶通信0062 映画『私の男』

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映画『私の男』は、奥尻島地震で家族をなくした少女・花(二階堂ふみ)が、遠縁の男・淳悟(浅野忠信)に引き取られるところからはじまる。淳悟もまた身内がなく、それまで孤独な生活をしていたこともあって、ふたりはお互いをよりどころにしながら生きていくことになるのだが、ふたりの生活は、父親と娘という社会的な関係のまえに男と女という本能的な関係がわきあがってきて、どんどんとあやしい世界に入り込んでいく。その細い目からは気持ちがまったく読めない淳悟と、狂気をはらんだ瞳をした花。それぞれのいのちが、雪と氷に閉ざされた紋別でぶつかりあい、物語は展開する。

この映画を見ていて思ったことは、モラルとは何だろうということだった。よくモラルに反することを、アンモラルやインモラルというが、このふたりの振る舞いのすべては、アンモラルであると同時に、またインモラルでもある。アンモラルが社会的に見て反道徳的であるのにたいしインモラルは特に性的な面においての倒錯を意味するが、淳悟と花の生きざまは、誰がどう見たって社会的な悪というものをこれっぽっちも気にせず、さらには性的なタブーをも踏み越えた、アンモラルとインモラルにどっぷりとつかった暮らしを、絵に描いたようなものだった。

社会とは、抽象的な概念であると同時に具体的な人間関係も伴うものであるが、淳悟と花は、いちおうは勤め先や学校といった空間はあるものの、そこでの人間関係はなおざりなものとなっていて、淳悟と花にはお互いの存在がすべてとなっている。身を寄せ合って相手の体のぬくもりを感じ、囁きあっていることだけが、自分以外の存在を感じるすべとなっている。ふたりはひとつの家に住み、いちおうは父親と娘ということになってはいるが、そんなことは建前にすぎないことを、お互い誰よりも知っている。ふたりはともに生活をしていながら、たとえ血がつながらないとしても親子という関係であるにもかかわらず、そのなかにはおさまらない思いを抱いていることを知っている。社会性のないところに、あつくたける本能にブレーキをかけるものなど、存在しない。道徳というものは、他人がいてはじめて、そのちからを発揮する。

本作は、そんなふたりのあやうい関係が描かれるその物語の進み行き以外にも、演出面においても注目すべき点がおおい。厳しい寒さが見てとれる紋別の風景はもちろんのこと、作中でくりかえしなされる指の描写と赤という色への執着が、つよい印象をのこす。ともにふたりの関係の生々しさをあらわしていて、画面から獣じみたにおいが、わきたってくるようだった。

また、作中において何度も流れてくるドヴォルザークの交響曲第九番第二楽章、いわゆる『家路』のメロディーも、ふたりの関係を逆説的に象徴している。「家路」の先には当然ながら「家」があり、そこには「家族」が待っていているはずなのに、ふたりが住んでいる空間で行われていることは、とても家族のそれだとはいえない。ドヴォルザークの郷愁をかきたてるメロディーは、永遠に家路にたどりつくことが出来ない男と女をつつみ、その異様な関係をうかびあがらせている。

映画『私の男』予告編

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