
Ri_Ya / Pixabay
三島由紀夫は、その姿をもっとも後世にのこした作家なのだと思う。それまでの作家は、せいぜい書斎で原稿用紙にむかってしかめ面をしている写真が何葉かあればよいほうなのに、三島はそうではない。写真はもちろんのこと、映像や音声などをつうじて、わたしたちはあたかも同時代のひとに接するように三島の顔や身体をみて、その声に耳を傾けることができる。
三島はさすがに行動のひとだけあって、書斎にこもらず街に出た。ときにはふんどしひとつになったりセバスチャンの扮装をしてまで、その姿をメディアに記録させた。それゆえ三島の写真についていえば、いまだにはじめてみるものがたくさんある。それだけ三島はカメラの前に立ち、好んで被写体になったということなのだろうが、それが三島のナルシズムによるものなのか、それとも露悪的な感覚によるものなのかはさておき、そんな三島の意識のおかげで、わたしたちはいくらでもあたらしい三島由紀夫に出会うことができるのだ。
今回とりあげるのは、その三島が音楽番組の余興で指揮をする姿をおさめたものである。テロップに昭和43年3月とあるから、自決の2年前ということになるが、三島の表情はあかるい。
指揮棒を振る三島由紀夫の、いかにも三島らしい生真面目さに満ちた表情もいいが、この映像の白眉はその指揮をするまえのやりとりにある。なにしろ三島も司会の團伊玖磨も、言葉遣いがほんとうに美しいのである。ユーモアをまじえつつ展開される会話は談笑という言葉がぴったりである。
指揮棒ひとつとっても、三島も團も、それをとても丁寧にあつかっているのがわかる。物をわたすときのお手本のようなしぐさを、ふたりともさらっとやってのける。神は細部に宿るというが、人格もまた、そのようなところにあらわれるのかもしれない。
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