空き瓶通信0044 みうらじゅん『ボク宝 国宝よりも大切なボクだけの宝物』

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子供というものは、誰でも自分だけの宝物を持っているものだ。それは特売品の値段シールであったり、あるいはビールの王冠であったりして、まわりの大人たちが見たら、たいていはごみとしか思えないようなものばかりなのだが、当の子供にとっては、それらはかけがえのない大切な宝物なのである。ちなみにわたしは、道端に落ちている雑誌が好きだった。そんなものを拾ってきては、ヒーターの下に隠していたのである。みうらじゅんが本書で伝えているものは、そんな子供にとっては当たり前のことであるのに、大人になるにつれ、いつのまにか忘れてしまった宝物を見つけて慈しむ、あの精神である。

ボク宝と書いて、「ボクホウ」と読む。その定義は本書の副題にもあるように、「国宝よりも大切なボクだけの宝物」のことである。ボク宝とは、1997年に流行語大賞入賞も果たした著者みうらじゅん発案の「マイブーム」の精神を、さらにラディカルに推しすすめたものに他ならない。

マイブームが「その瞬間における自分だけのブーム」であるのに対して、ボク宝はそのマイブームが永続性をもって「自分だけの宝物」という普遍の価値をおびた状態をしている。マイブームもボク宝も、世間がどうこういおうが、とにかくこれが好きなんだという気持ちの表明には変わりはないが、宝という言葉のちからもあって、ボク宝という言葉のほうが、よりつよい思いがうかがえる。

本書では、著者のみうらじゅんが自身のボク宝のかずかずを惜しみなく披露していく。それらの宝物をみたとき、みうらじゅんをよく知っているひとはそのラインナップに納得するだろうが、ご存じない方はあまりの脈略のなさに、びっくりするに違いない。水原弘のハイアースの看板からヌードトランプ、阿修羅像に巨泉マフラー、谷ナオミに帝銀事件。これこそが、みうらじゅんが国宝よりも大切だと宣言する「ボクだけの宝物」である。

みうらじゅんの自画像は、いかにも何でも見てやろうとでもいいたげな、ぐりぐりとした目が印象的なカエルのすがたをしているが、いまあげたボク宝のかずかすは、まさにそのような好奇心をもってこの世界を見た結果、発見したものに他ならない。みうらじゅんの価値基準は、つねに自分にあるのだ。

だが、価値基準をつねに自分にもつということは、並大抵のことではない。人間は集団の生き物であるから、それゆえ成長するにつれて他者から逸脱しないための本能が働くのだろうか、だんだんとひとの目を気にするようになり、まわりの価値観にあわせるようになっていく。

これは、絵を例にとるとわかりやすいだろう。どんな子供でも、小さい時はのびのびと絵を描くが、それが小学校高学年ともなると、変にこぢんまりとしてしまうことを思い出してほしい。成長するにつれ、わたしたちはみずからを他者の価値基準へのすり寄せ、他者からの批判を避けるため、自分を閉じこめてしまうのだ。

そのような気持ちがいきすぎると、趣味の領域ですら、ほどなく他者の目を気にするようになる。これではとても、自分だけの宝物を宣言することなど出来ないだろうが、多くの大人たちは程度の差こそあれ、そんな思いで生きているといっていい。そんな世間のしがらみに、みうらじゅんはマイブームだのボク宝などという概念をつくりだしては、風穴をあけようとこころみるのである。

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