空き瓶通信0022 ドストエフスキー『白夜』

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ドストエフスキーといったら、「くらい・ながい・おもい」の三拍子がそろった作家といった印象があるが、この『白夜』は、そのどれもがあてはまらない作品である。たしかにこの小説の主人公も、他のドストエフスキー作品のそれと同じく憂鬱質のインテリゲンチャの青年ではあるが、彼の生活はいたって平穏で、死刑の宣告を受けて執行の直前にそれを取り消されたりすることもないし、金貸しの老婆を殺すこともない。彼はただ自分の世界に引きこもり、空想にふける毎日を過ごしているのである。

そんな彼でも、ドストエフスキーの小説の主人公であることには変わりはない。当然ラスコールニコフよろしく悩むことになるのだが、その原因は哲学的・宗教的なものではなく、なんと恋の悩みなのである。

主人公は、美しい白夜の夜の散歩の途中に、さめざめと涙を流す美しい少女と出会う。将来を約束した男と再会を約束したその日がやってきたというのに、その男があらわれないのだという。主人公はそんな彼女を慰め、言葉を交わしているうちに、ほどなく彼女に恋に落ち、娘の気持ちも、だんだんと主人公に傾いていく。これが、物語の筋である。

この物語のポイントは、主人公が少女に恋をすることによって、空想から現実へと踏み出していくさまであろう。恋すること、誰かを愛するとこと。それは、空想にふけるだけだった彼の日常に不意に訪れた「リアル」であり、それは確実に彼の意識に作用して、世界そのものを一変せしめるほどの威力を持った出来事だったのである。

これは他のドストエフスキーの作品にもいえるのだが、この小さな物語は、世界は自分の意識ひとつによって、その色合いを変えるということを教えてくれる。いつものドストエフスキーなら、それこそ主人公が老婆を殺すことや死の直前にそれを免れるなどというネガティブな体験をすることによってそれを表現するのであろうが、この作品では、誰かを一途に激しく思うという美しい行為によってそれを表現している。本作は一般に知られているドストエフスキーのイメージとは大きくかけ離れたものではあるが、他の作品と同じメッセージが、美しく織り込まれている。

映画『白夜』予告編 ルキノ・ヴィスコンティ

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