空き瓶通信0059 松本清張『眼の壁』

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松本清張は、永遠の現代作家なのかもしれない。テレビや映画の原作としてその作品はつぎつぎと取り上げられ、時代時代にあわせたアレンジをほどこされ、新しい読者が生まれている。ふつうは作家の死によって作品は忘れ去られ、読者も減っていくものなのに、稀有なことだと思う。

では、どうして松本清張の作品は、いつの世においても受け入れられるのだろうか。わたしは、その小説世界の底流に流れているどす黒い日本的なものが、世紀が変わろうが元号が改まろうが、この社会において何の変化もなく維持されつづけているからではないかと考える。

松本清張の存在を文学史的にいえば、日本においてはじめて社会派推理小説を書いた人物ということになるのだろうが、松本清張がその作品に描いた社会のありようは、けっして美しいものではない。むしろそれは陰惨で、暗いものばかりである。

数々の作品において描かれた事件のきっかけや背景には、かならず貧困や差別といったものがある。具体的にいえば、貧しいものへの不当な仕打ち、職階の違いから生まれる軋轢、そして特定の病気への差別など、松本清張の作品は社会のなかで弱い立場にあるもの、組織において下の立場にあるものが苦しみ、ときに大きな責任を負わされる場面の連続である。

今回とりあげる「眼の壁」の読みどころも、そのような弱い立場におかれたものの姿にある。思いもよらぬ手形詐欺にまきこまれ、すべての責任を押し付けられ、にっちもさっちも行かなくなってしまった担当者の課長が自殺に追いこまれるまでの状況が、本書にはいやというほど細かく描かれているのだ。

課長という役職は、管理職でありながら現場にもたずさわるので、なにか不都合なことが起こったときに、上からもっとも攻め立てられる立場なのだろうか、このようなことは、いまだ日本のあちこちで起きている。こんにちの三面記事においても、ある組織で何らかの不正が疑われたときに課長クラスの人物が自殺をしたというニュースを目にすることがあるが、下位の者に責任のすべてを負わせるシステムは、いまだ変わらないのである。

この文章のはじめに、わたしは松本清張は永遠の現代作家なのではないかと書いたが、それは松本清張という才能に対する賛辞であるととともに、わたしたちの社会の恥部がまったく改められることもなく、今日においても残存していることも意味している。松本清張の作品が現在も読まれ、映像化されると大当たりするのは、いまだにこの社会が差別と貧困にあふれているからではないか。わたしは、そんなことを思うのだ。

知ってるつもり?!松本清張

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