食べ物の描写について


いつからか、小説を読んだり映画を見たりしているときに、ただその物語世界にひたるだけでなく、その物語をささえる構造やさまざまな場面の描写それ自体に、ふかい関心をもつようになってきた。

物語とは、時間軸に沿って直線的にすすむものであるが、その先へ先へとすすむ推進力に棹をさして、細部に注目をしていくのである。それは物語の設定や描かれる人間関係の類似をみつけるという抽象的なものから、物語のなかで展開されている、より具体的な描写に着目をしていくということまで、さまざまなレベルにおいてなされる。そのような作品鑑賞のなかで、わたしのお気に入りのひとつは、食べ物に関する表現に注目することである。

食べるという行為は人間存在の根本をささえるものであるからか、活字であれ映像であれ、意外とおおく登場する。食材を買い込む。調理をする。それをみんなで、あるいはひとりで食べる。そんな生活の一部が丁寧に描かれていると、ああ、ここにはたしかにひとがいて、日々を生きているのだなと、とても嬉しくなる。わたしは飲み食いの描写がない作品は、なんとなく信用ができないという思いすらある。

ときにはその描写のうまさから自分でも食べたくなって、実際に作ってみることもある。さいきんでは、海洋小説にでてきた蛸飯というものがとても美味しそうで、物語がひと段落したところで読み止しのまま、蛸だの帆立だの海老だのを買ってきて、いそいそと炊き込んでみた。出来あがった蛸飯はなにより蛸の食感がよく、食べていると、潮のかおりに満ちた小説世界といまここにいる自分が、ふかくつながっているような気持ちになった。作中の食べ物に注目し、実際にそれを作って食べてみることで、五感をもって作品にひたる。そんな鑑賞のしかたがあってもいいだろう。

1+