空き瓶通信0029 野坂昭如『アメリカひじき・火垂るの墓』

jplenio / Pixabay

文は人なりという言葉があるが、いいえて妙なものだと思う。ひとりひとり顔が違うように、まったく同じ文章を書くひとというのは、この世には存在しない。同じ話をものがたるにしても、言葉の選びかたのひとつや語られる順序によって、受け手の印象はがらりと変わるものだ。きっとその違いが、個性ということになるのだろう。

作家というのは、そんな個性の強いひとたちということになるが、そのなかでも野坂昭如は、特にそれが強烈な書き手である。『アメリカひじき・火垂るの墓』に収録されている短編群を読みながら、わたしはそんなことを思った。

野坂昭如の書く小説の特徴は、そのうねるような語りの手法である。物語の進行をさえぎるかのように繰り返し回想が織り込まれるその独特のスタイルは、一見するとこの作家がひどく突飛な言葉の使いかたをしているような感じがするが、これは、わたしたちがふだん頭の中でおこなっている作業と同じものである。

わたしたちは「いま行っていること」に、常に100パーセント集中していることはない。たとえそれがどんなものであろうとも、頭の中ではさまざまなことを思い巡らしながら、目の前のことをこなしている。つまり、意識をここではないどこかへと飛ばしながら、わたしたちは日常を生きているのである。

不意に頭に思い浮かぶもの、それは空想であったり、あるいは忘れられない過去の反芻であったりするのだが、その時のわたしたちは、頭の中に浮かぶ映像、ようするに眼がうつすのではないもうひとつの映像を見て、ここではない別の世界にたましいを遊ばせる。そしてふとした拍子に現実にかえって、再び目の前のものに意識を集中しようとする。人間とは、そのように出来ているのだ。

これを小説世界におきかえるなら、語り手が物語を語る役目を放棄して、不意に自分の内面を語りだすということになるのだろうが、これこそが、野坂昭如の語りに他ならない。つまり、野坂昭如の文体は、わたしたちの日常における無意識のうちの作業を表現するのにぴったりなのだ。

昭和戯作派ともいわれたその独特の語りのスタイルは、はじめは慣れるまで骨が折れるのだが、読みすすめていくうちに、心地よくなっていくはずだ。七五調と体言止めがくるくると渦巻く、そのグルーヴに身をゆだねているのが、なんともいえず心地よいのである。そしてこの強烈な個性を持った語りは、読むものに激しく作用する。事実、わたしはこの『火墓るの墓・アメリカひじき』を読んでからしばらく、書くメールのすべてが、あの文体になってしまったことがある。野坂昭如の語りは、強い感染力を持っている。

↓↓↓読んだよ!

0