空き瓶通信0024 チャイコフスキー「弦楽セレナーデ」

     WikiImages / Pixabay カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ「雲海の上の旅人」

クラシック音楽における不幸とはなんだろうか。思うにそれは、バラエティー番組やコマーシャルなどで使用されることで、その曲に対する作曲者の意図とはお構いなしの、コミカルなイメージが出来上がってしまうことなのだと思う。

たとえばバッハの「トッカータとフーガ」は、その出だしのメロディーが悲劇をあらわす記号として多用され、挙句の果てに嘉門達夫によって「チャラリ~鼻から牛乳~」と勝手に歌詞までつけられてしまった。自分が生きた何百年も先の世界で、知りもしなかったであろう東の果ての弓なりの列島で自分の曲をそんなふうにおもちゃにされて、バッハはどんな気持ちなのだろう。

バッハ:トッカータとフーガ ニ短調BWV565:ヴァルヒャ(Org)

さて、そんな「トッカータとフーガ」のように、聴いた瞬間にイメージをもたれてしまう曲に、チャイコフスキーの「弦楽セレナーデ」がある。「弦楽セレナーデ」という名前を聞いただけではどんな曲かわからなくても、人材派遣会社のスタッフサービスのCMで流れるオー人事オー人事のあの曲だといえば、あああの曲かとわかるだろう。あのCMにおいて「弦楽セレナーデ」もまた、チャイコフスキーの意図を遠く離れて、コミカルな悲劇を強調する記号として使用されているのはあきらかである。

だが、いうまでもなくチャイコフスキーの「弦楽セレナーデ」は真面目な曲である。冒頭の震え立つようなメロディーは、この世界に下りてきた音の中で、最高ランクの美しさであるとわたしは思う。

出だしの荘厳なメロディーを聴くと、わたしは人生に襲い掛かってくる運命と、それに抗おうとする人間のたましいの高貴さを思う。波のようにたゆたう旋律は、あるときは激しく、あるときはゆったりと流れ、これはまるで、ひとの一生のようだという気持ちになる。

わたしがいちばん親しく聴いてきたのはへルベルト・フォン・カラヤンがベルリンフィルハーモーニーで吹き込んだものだが、ここでは小澤征爾が音楽院の学生を率いて奏でている映像を紹介したい。

なによりも、学生が持っているちからを存分に引き出す小征征爾がすばらしい。聴いているとうっとりとした気分になって、音楽とひとつになって、美しさのなかにとけこんでいくような、そんな気分になってくる。

Tchaikovski. Serenade for strings. Seiji Ozawa.

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