空き瓶通信0016 これからの(起こりうる)こと


今日は、2020年3月25日水曜日。ふたつのめ記事を書く。

毎日、新型コロナウイルスの話ばかりで嫌になるが、さきほど、「新型コロナウイルスの初期症状として、臭覚や味覚がきかなくなる」という海外の医療現場からの報告をみた。それをうけてわたしは、いやがおうにも先日言及した映画、『パーフェクト・センス』を思い出してしまった。あの作品は、謎のウイルスが世界中に蔓延して人類が五感をひとつひとつなくしていくという物語なのだが、作中ではそのウイルスに感染すると、まず臭覚を喪失するのである。なんてことだ、気持ち悪いほど、同じではないか!

おそらく、このままの状態がつづくとなれば、遅かれ早かれ、東京もミラノやパリ、ロンドンやニューヨークのように、外出禁止などの措置がとられるだろう。わたしは、政府が特措法をいそいで通したのは、いずれ緊急事態宣言をするからだと考えていたし、もしそうなるのであれば、それはオリンピックの開催が不可能になってからだとも思っていた。いま、それらの条件は満たされている。したがって、いつ、東京が封鎖状態になっても、おかしくないのではないか。

わたしは、いつそうなってもいいように、食べ物や飲み物、生活必需品などを、一月の終わりから少しずつ買いためておいた。もともとあった非常食にくわえて、あれこれと買い足していき、このまま家から一歩も出ないで、数ヶ月は生活できるくらいの準備はすでにできている。まるでノアの箱舟である。

だが、準備が出来ていないひと、特に老人などの社会的弱者は、封鎖や外出禁止となった場合、どうするのだろう。あるいは、一人暮らしで仕事をしていて、買い物の時間がとれなかったひとなども、絶対にいるはずだ。それに当然外出禁止ともなれば、仕事にも出られなくなるため、収入だってとだえるだろう。社会は、いやでも混乱するのだと思う。

こういうときこそ、わたしたちは連帯をしなければいけないのだろうが、悲しいかな、現代の日本人に、そんなことが出来るだろうか。親戚や友人、知り合いや顔見知り、あるいは近所のひとといった縁をたよって、助けたり助けられたりということが、出来るだろうか。

前の戦争のとき、ひとびとは少しの縁をたよって疎開をして、生き延びようとした。あの太宰治だって、三鷹の自宅近くに爆弾をおとされて、いそいで妻の甲府の実家に身を寄せたがそこも空襲にあい、最後は出入り禁止になっていた津軽に帰っている。そんなふうにわたしたちもまた、生き延びるために、縁をたよるようになるのだろうか。

海外のニュースを見ると、どうやらアメリカとイギリスでは、新型コロナウイルスの完全な終息/収束まで、一年半ほどの期間を見込んでいるらしい。つまり、その封鎖のかたちの段階の変化はあるにしても、両政府は一年半ものあいだにわたって、ひとびとに何らかの規制をかけることにならざるをえないと踏んでいるのである。いったいこれから、どうなるのだろう。
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