高山宏 學魔_nonbot 身内と胎内 『失われた庭』の僕 98~101

身内と胎内 『失われた庭』98): いろいろ判るにつれて実に人間ばなれした女ぎらい(ミソジニスト)のインモラル野郎ばっかりじゃないか。ぼく一人いらいらしているのかと思っていたら、絶好のタイミングでブラス・ダイクストラの『倒錯の偶像』(1986)、ジョゼフ・ケストナーの『神話と女ぎらい』(88)が..

身内と胎内 『失われた庭』の僕 99): 続けざまに出た。ぼくが一番勉強させてもらったのはワイリー・サイファーの仕事で、たとえばその『文学とテクノロジー』は、純粋とか抽象とかに淫する文化の一様によってきたる所の非人間性を説得的にチャートしてくれていた。

身内と胎内 『失われた庭』の僕 100): 時代が早かったこともあって、抽象狂いの男性性、それが切り捨てていったもろもろの女性性というテーマはなかったところ、80年代に一挙にそこの部分が充填されたことになる。ラファエル前派や、フレデリック・レイトン、アルマ=タディマら..

身内と胎内 『失われた庭』の僕 101): いわゆるオリンピアン・サークルの新古典主義画派ほど女性を純粋な美として描いた人々はいない。日本でも熱烈なファンは多い。しかしそうした人々が現実の女たちに何をしていたかをおそらく初めての規模、空前の怒気を含んでダイクストラやケストナーはあばいた。

0